ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー
1909年 油彩・カンヴァス リーズ美術館蔵 ©︎ Leeds Museums and Galleries (Leeds Art Gallery) U.K. / Bridgeman Images

 恐怖は伝染する。船を漕ぐ屈強な男たちの怯えは、見る者をも巻き込まずにはおれない。
 暁の空、うねる波、風を孕んでいっぱいに膨らむ帆、マントがはためき、女の髪の毛が真横に流れる。マストに縛りつけられた古代ギリシャの英雄オデュッセウスは、彼だけ蜜蝋の耳栓をしていなかったため、セイレーンの歌声を聞いて狂乱し、海へ飛びこもうと身をよじる。サイレン(警報)の語源となった海の魔女セイレーンは、半人半鳥または半人半魚の姿と考えられ、美声によって船乗りたちを惑乱させ、船を沈めたという。ドレイパーが描くセイレーンは、当時のイギリス人が理想とする若い美女そのもの。口を大きくあけ、歌いながら寄ってくる。彼女らの下半身は海中では魚なのに、船べりによじのぼる時には白いエロティックな脚となり、腰には海藻が巻きつく。さらに船内へ入ると藻は布へ変わり、あたかもファム・ファタール(男を破滅させる運命の女)の正体は、人間ならざる異界のものだといわんばかりだ。この頃はまた、セイレーンという言葉が娼婦の代名詞として使われていた。